習い事 押すべきか 流れるべきか 1
このアソシエーション、習い事の総合学校のculture et sport pour tous(cspt)、パリでグングンを始動して、数ヶ月が経ちます。
csptに来る人たちで、既に、数ヶ月で、明らかに、(何か)を見つけ、一つ人生が豊かになっている、大人、子供たち。
成長の度合いはそれぞれですが、技術であったり、知性であったり、それは、宝石やお金のように明確な形があるものではないですが、人の内面が豊かになることは、なんと素晴らしい事かと、そういう姿をみて思います。
成長期の子供や赤ちゃんが、ごはんだけ食べれば、すくすくと<成長>するのと異なり、習い事や勉強、運動、人間の内面や技術、知性の成長は継続した訓練(それを努力、と呼ぶのかもしれません)が必要になります。
この、継続した訓練、努力、に対する考え方は、時代によって、少しずつ形を変えていっているように思います。
今の時代は、努力する事が、むしろ、悪徳のようにとらわれる事が多々あるように思われます、多くの親の概念としても
(まず、楽しいことが一番大事)ということが、昨今の保護者の基本的な思いとして、あるように、見受けられます。
それは、一つ、確かなことだと、思います、まずは好きになる事、好きにさせる事。
しかし一方で、ある日突然、つい最近まで、(楽しい!)と、満面の笑みを浮かべて、習い事をしていた子供が、
(楽しくなくなったようなので)
という、保護者の一言と共に、去っていってしまうケースを多々みてきました。
教育、親の形、あるべき姿、それには、答えを与えるのが難しいような気がします。
それでも、子供の習い事の先生として、10年程、多くの保護者、子供達と接してきて、思うことはあります。
次回に続きます。
うなぎ先生
習い事 押すべきか 流れるべきか 2
10年ほど、多くの子供と接しながら、習い事、ものを教える事、文化、スポーツの大切さ、人間が成長することの意義、指導者としての技術、心、そういったものについて考えてきました。
そういうことを考える時、よく自分の、過去の指導者達について、考えて来ました。
もっとも近い教育者だったのは、言うまでもなく、親、です。
先のブログでも触れたように、昨今はとくに、(子供が楽しくないようなので、やめることにしました)と、習い事をある日唐突に辞めてしまう子(むしろ、保護者と書いた方が正確かもしれません)をみかけます、それは例えば、その前週までは、とても楽しい、と言っていた子でも起きてしまうことがあります。
自分の幼少時代、音楽を学んでいましたが、それはまさしく親との戦いの時間でもありました。
はっきり言って、ピアノの練習なんて、外で駆け回って遊ぶのが大好きな自分にとって、楽しいわけはありませんでした。
でも、自分の親は、(強制的に)自分に音楽を習い続けさせました、一日の練習のノルマもあり、反抗は許されないものでした。
フランスの有名な幼児音楽の教育者の言葉ですが
(練習する子供は、普通じゃない)と、言いました。
個人的な話になってしまいますが、自分は、そうやって(学ぶこと)の環境を辛抱強く与えてくれた自分の親に、感謝しています、大嫌いだった音楽が、ピアノが、ある日(それはもちろん数年の時、忍耐、努力を経てでした)、かけがえのない財産になっていたからです。
高校の頃の校長先生が、夏休み前に全校生徒の前で話してくれた言葉が、生涯頭から離れません。
(人間は、怠惰をむさぼる動物だ)
確かに、本当に無理矢理、何かをやらせ続けることは、強制することは、ときに、逆効果で、マイナスをもたらす事も考えます。
とても難しいことでもあります。
ただ、教育に携わるものとして、子供たちには、階段を上る事を諦めたり、壁の前では後退するだけになってしまう人間は、なって欲しくないと願います。